葺手町の西(現岩手銀行中ノ橋支店の通り)は城下随一の幹線道路であり紺屋町への道筋となっていた。葺手町とは愛染横丁でつながっている。 寛永年間(1624~1644)のころは葺手町には切支丹が住んでいたらしく、このころは屋根葺き大工の町で屋根葺町と呼ばれていた。南部藩が山城の国から鳥山葛右衛門という屋根葺き名人を招き居住させて城下町の居宅の改造に乗り出す。萱を使った画期的な屋根はその名を取って「葛屋根」「葛葺き屋根」と呼ばれて人々に愛されたという。この屋根葺町は慶安四年(1651年)8月16日に葺手町と改められ、承応四年(1655年)には葺手丁となった。 葺手町と紺屋町の間には「斗米山」があり、大きな石が露出した花崗岩地帯であった。記録では「とっこべ石」「とっこべ森」という記録もある。ここから盛岡八幡宮一の鳥居の石材を掘り出したことが「盛岡砂子」に記載されている。この地の地鎮として斗米稲荷社(現お不動さん境内)も祀られている。斗米山にはとっこべ虎子の伝説もあり、宮沢賢治の童話「とっこべとら子」としても知られる。斗米山一帯は長福院(現お不動さん)、隣接して菩提院(現東北電力のあたり)があり、愛染明王を安置する愛染堂(現お不動さん境内)、道を隔てた向かい側には三明院があり藩政時代の一大聖域の観があった。天明八年(1788年)の戸数、人口表によると、戸数三十八戸、人口三百二十七人となっている。 明治になると屋根葺き職人達も家業が変わってくる。明治二十一年の盛岡諸有名一覧表によると、建家持、盆石持、雑菓子屋、蕎麦屋、馬車屋、人力車屋などがみえる。明治二十六年(1893年)には安田銀行盛岡支店が開業する。この頃北山の聖寿寺の山門にあった一対の仁王像が葺手町の木村仁太郎氏の尽力で現在の場所に安置された。この像は三百年前に江戸で運慶の弟子によって作られた名作といわれ、盛岡市文化財に指定されている。また、山門(仁王門)も重要文化財として知られている。境内の愛染堂に安置されている愛染明王像も桃山期の地方作と推定されているが、このように大きな像は珍しく、文化的な価値が高い。お不動さんについては開山については詳らかではないが、城下町ができてまもない頃、宝珠盛岡山永福寺の末寺として建立された。本尊の大聖不動明王は三百年前に比叡山からきた伝教大師の自刻といわれ霊験あらたかなことで盛岡市民から崇拝され親しまれてきた。享保十四年の四月二日大火があり、大沢川原から六日町、呉服町、肴町、神明町、紺屋町、八幡町、神子田等に延焼して千九百三十三戸を焼いたが不思議にも葺手町は炎火をまぬがれたといわれている。また、明治十七年(1884年)の盛岡大火の際も河南地区の大半が焼失したにもかかわらず、お不動産のお蔭で葺手町は焼けなかったと言われている。 また、三明院の本尊は延命普賢菩薩であり、その歴史は古い。治承四年(1180年)源頼朝が貞純親王から伝来の金剛宝珠をもって、仏師運慶、鋳師珍華に奉鋳させ護持仏としていたものが、源氏譜代の旧臣具代法善坊により足利の乱を避け1570年南部三戸にたどり着いた。寛文二年に三戸より城下町盛岡に尊像が奉遷され、寛文十一年(1671年)に現在地に至ったとされている。

※もりおか物語(熊谷印刷)参考
明治 仁王像の遷座明治 仁王像の遷座
大日本婦人会盛岡支部葺手町班大日本婦人会盛岡支部葺手町班
昭和28年 お不動さん還る昭和28年 お不動さん還る